海外へのいざない

吉岡 勝美氏
「辻調理師専門学校」中国料理技術顧問

辻調理師専門学校は今年で58周年を迎えます。創設者の辻静雄氏の本物を追究する軌跡が当学の歴史でもあり、中国料理は1971年香港での研修を皮切りに、多くの職員が海外研修を経験しました。特に1980年代に広東料理、広東点心を研修した成果は大きく、これによって「辻調の中国料理」が確立されました。当時の日本は料理書も少なく、飲食業界は技術知識は下働きをしながら覚えるもので、沢山の日本人、華僑の子息が15~16時間勤務の厳しい修行をしていた時代です。また海外研修は料理人との交友関係を発展させました。その中の香港を代表する料理人の一人でもある林勝倫氏を紹介しましょう。1947年香港生まれ。12歳で街場のレストランで働き始め、24歳でインドネシア、シンガポールに渡り現地のレストランの料理長を歴任。数年後に奥さんを連れて香港に帰国するが仕事がなく、ぶらぶらする毎日を過ごします。1981年のとある日、奥さんが朝刊を読んでいて求人欄にマンダリンホテルが料理長を募集しているのを見つけます。奥さんのすすめもあり、軽い気持ちで面接を受けに行くと採用されます。1985年2月15日香港マンダリンホテルが21周年記念のイベントとして満漢全筵を行い、世界各国から食通と称される人達が招待されました。フランスはクリスチャン・ミヨー氏、日本は当学校長の辻静雄氏、イギリスはテレビ番組のパーソナリティーのロバート・キャリア氏、香港のコラムニスト梁多玲女史、イタリア、アメリカ、スペイン、シンガポールからも参集しました。香港のウィリー・マーク氏が進行役となり、三日三晩総勢24名が料理に舌鼓を打った。厨房で采配を振るったのは林氏、38歳の時です。

これを機に香港の業界関係者が次々と林氏をヘッドハントすることになります。1986年マンダリンホテルからわずか100メートル足らずしか離れないフラマホテルへ、1989年イギリスに進出していた香港企業がオープンする「采蝶軒」へ、1990年ヒルトン・ホテル社がコンラッドホテルをオープンするにあたり料理長を探していました。社内で人選が進み、ほぼ内定している状況で当学が推薦をした林氏を招聘、1992年にはRoyal Hong Kong Jockey Club(英皇御准香港賽馬會)へ移り、香港のメディアは大きく取り上げて話題となります。Jockey Clubの料理長になることは料理人の最高の地位と名誉を得ると言われていたからです。林氏は34歳でマンダリンの料理長、5年後にフラマホテルのオーナーの熱意に応えて移る時に自分の片腕の料理人をマンダリンに残します。そしてマンダリンの営業が軌道に乗った約1年後に自分のもとに呼び戻します。約10年間で4度、林氏はレストランを変わるたびに、自分の愛弟子を残して新天地へと移っていったのです。職人から職人の腕へと、ひそかに、そして、したたかに伝えられてきた技術。孤独ではあるが、逃れがたい料理人の性を生き抜く者たちの心は深くつながり、共鳴するのでしょう。林氏の謦咳に接することがいかに深い意味合いを含むものであるか、古くから言い古されたことではありますが30年以上を経た今日でも林氏の謹厳実直な立ち居振る舞いは私どもの心をとらえて離しません。当学では1988年より林氏から学んだ中国ハム、豚肉、ヒネ鶏からとっただし「上湯スープ」を使用しています。うま味は人工的につくることもでき、その良さも理解はしていますが、私たちはやはり本物の味を伝えていきたいと考えています。上湯スープの使用により、全てのレシピから人工的なうま味は消えました。

他国の料理作ることを生業とする多くの料理人がその国に足を運び見聞を広めることを切望されていることでしょう。特に長期の研修は以前に比べて多くの門戸が開かれていることは喜ばしい限りですがいつの時代でも大きな決断を必要とすることに何ら変わりはありません。近年、世界各国の情報は容易に入手することができ、溢れている時代となりましたが、他国の料理を目指す人たちには自らその地を歩き、食べ、その地に根を張る人々と接し、語らう時間を共有する機会を是非とも持たれることをお勧めする次第です。各々の国の食文化に触れ、オリジナルな経験を重ねられることは料理、お菓子を理解する上で心身の糧となることでしょう。

[掲載日:2018年9月3日]