料理人ヘストン・ブルメンタール

今、世界で最も気になる料理人の一人が、ロンドン郊外のレストラン「ザ・ファットダック」のヘストン・ブルメンタールです。20世紀の100年間はフランスが覇権を握っていた時代でした。その20世紀最後に現れたのがスペイン・カタルーニャ地方ロサスにあったレストラン「エル・ブリ(小さなブルドックの意味)」で、フェラン・アドリアが生み出した「エスプーマ」によって、料理の世界は一変、料理人たちのフレンチコンプレックスがなくなり、世界のあちこちで新しい料理が生まれ続けています。
その代表が、コペンハーゲン「ノーマ」モデナ「オステリア・フランチェスカーナ」そして、「ザ・ファットダック」でしょうか。「ノーマ」のレネ・レゼピ、「オステリア・フランチェスカーナ」のマッシモ・ボットゥーラ、二人とも年ごとに新しいコンセプトのもと革新的な料理を生み出していますが、「ザ・ファットダック」のヘストン・ブルメンタールは一風違っています。
2007年からかれこれ10回は通っていますが、テイスティングメニューは10年以上経過してもほとんど変わっていません。それでも飽きずに出かけるのは、メニュー名は同じでも料理の内容やプレゼンテーション、さらにメニューの組み立てまでが出かけるたびにヴァージョンアップしているからです。そのコンセプトは、「ノスタルジー(懐かしい味の記憶)とファンタジー(今まで見てきた夢)」があふれたレストラン。このように料理人ヘストン・ブルメンタールは、常に子供心を忘れずに料理を生みだします。
ロンドン生まれのヘストンは、子供のころ、料理に興味を持ちながら、美味しい料理を食べた記憶がなかったといいます。15歳の誕生日に両親がフランスの3つ星レストラン(どうやら、アルル近郊の「ボ―マニエール」らしい)でお祝いしてくれた時、料理に感動して、料理人になろうと思い立ったとのこと。
レストランの調理場に見習いとして入ると、興味と疑問が次々と湧いてきて、「なぜ、野菜をゆでるときに塩を入れるのだろうか?」「デザートのスフレは、どうして膨らむのだろうか?」厨房の先輩料理人に訊ねても、誰もその問いに答えてくれなかったそうです。
ヘストンは、仕方なく、しばらくして店をやめ、化学書や物理学の本まで独学で勉強し始め、自分なりの「塩をする」「熱を加える」原理を突き止めました。そこで、人づてにブリストル大学の物理学の教授を紹介してもらい、勉強の成果を伝えたところ、「まさに、君の言う通りだよ。いつか、君が店を出すことになったら、我々が応援するから」と、ロンドン郊外ブレイ・アン・テームズのパブを改装した「ザ・ファット・ダック」開店当初は、科学者が常駐するレストランでした。ちなみに、ヘストンが店名をどうしようか考えていた時、近くを流れるテームズ川に丸々太った鴨がいたのを見つけ「ファットダック」にしようと思い立ったのだといいます。
「ザ・ファットダック」のコンセプトは「ノスタルジー」と「ファンタジー」なのに、最新の調理技術を駆使した料理は未来志向で、12時すぎから食事が始まり夕方5時までかかる「卓上で旅をする」レストランです。
私のお気に入りの料理「サウンド・オブ・ザ・シー」(海の響きを懐かしむ)は、皿の横に置かれた法螺貝から出ているイヤーホンを耳にして、波の音とかもめの鳴き声を聴きながら魚介のマリネをいただくという、都会の郊外にいながらにして、海辺へと誘われる旅です。
どうして、こんな仕掛けを考えついたのですかと訊ねると、ヘストンは食べ物をいただくとき、眼を瞑っていただく、鼻をつまんでいただく、耳をふさいでいただくと、それぞれ味の感覚が違うそうで、そこから思い立ったのだという。
現在は、「音楽と食べ物」を課題に、例えば、ヘルツの違う音を聴きながら、同じワインを飲むと味わいがどのように違うかなどを、チームを組んで研究中といいます。どんな成果が表れるか、とても楽しみです。
その一方で、ヘストンはロンドン市内のホテル「マンダリンオリエンタル」にもう一つのレストランを持っています。その名を「ディナー・バイ・ヘストン・ブルメンタール」。16世紀からのイギリスの料理書を紐解き、当時の料理のレシピを現在の食材で調理したら、おいしい料理に仕上がることを証明して見せるレストランです。「ザ・ファットダック」が現在から未来へ、とすれば「ディナーバイヘストン」は過去から現在への「温故知新」。
1軒のレストランをパターン化して全国各地に支店を作るのではなく、発想の違うユニークなレストランを2軒持ってみせる。こういうシェフこそ、真の天才というのですね。
[掲載日:2019年2月4日]