日本の食に思う

古都の路地を和服姿で散策する外国人女性を目にする機会が多くなった。そこには日本の暦に沿った時間が流れているが違う趣がある。昨年はインバウンド客数が3,100万人を超えたらしい。ここまでくると新しいマーケッティングでこれまで考えられないようなライフスタイルが私の知らないところでたくさん生まれていることだろう。海外で日本文化への高い関心が話題になってから随分となるがその勢いはおさまらない。2020年東京オリンピック、2025年の大阪万博を控える中で国内でも日本的なものへの再検討・評価が盛んに行われるようになってきている。
日本文化を特徴的に示す言葉として_和_がしばしば用いられるが、どのようなものが日本的なのか、周りを見渡せば少なくはないがこれはと思える文物には抽象画に物質性がつきまとうが如く中国を感じる。日本的なものから中国の痕跡を取り去ってしまったら何が残るのだろう。純粋という観念は美しく魅力的だが、中国文化の産物なしの日本はどのようになっていったのだろう。日本の食は想像を絶するところに向かって行ったにちがいないなどと考えたが、すぐにそうとも言えないことに気づく。中国などの大陸系の調理は油脂と香辛料を媒介として味は濃厚であり、一方で日本は水で洗い清め、滋味を際立たせるともいわれて味は淡味である。油脂と水、日本の食文化は他の分野に比べると中国というよりは他国の影響が少なかったように思える。少なくとも明治維新までは。
外食天国ともいわれる今日の日本の食、訪日外国人は今ここにある文化を楽しんでいるようだがややもすれば崩食と揶揄され食の堕落と警鐘を鳴らす先達もおられる。家族の健康を気遣うスペースでもあった家庭のキッチンが既にない時代が始まっていることを思えば、食が人の健康の主導権を握っていた時代は終焉を迎えつつあるようだ。中国料理が「薬食一如」の理想追求という周王朝以来の宿命を捨てていく姿に寂しさを抱くご同輩もいるだろう。長い時間をへて現在の日本の料理はあるが、私たちはこれまで以上にグローバルな環境の中で成熟変貌した料理を将来見ることになる。日本の食文化の本質はどのように継承されるのかは想像に及ばないが不思議と悲壮感は薄く_民以食為天_そこには興味津々の自分がいると思う。
[掲載日:2019年9月6日]