期して待つ

吉岡 勝美氏
「辻調理師専門学校」中国料理技術顧問

本や新聞などで心を留める文章に出会うと書き留めたり、切り抜いて手帳に挟んだりする習慣がいつごろからかは覚えていないが身についた。先日、新しい切り抜きを納めた時に読み返す機会を得た一枚がある。

チャンスの神様は特殊な髪形をしているらしい。前髪はフサフサと長いけれど、後ろのほうには髪がない。つまり、つるつるにはげている。この神様がむこうから走ってくる。なぜか裸で走ってくるらしいのだが、こちらが待ちかまえていて、「エイッ」とその前髪を捕まえなければならない。うっかり逃げられてしまい、後ろから捕まえようとしても、そこはそれ、つるつるだから手が滑って捕らえることができない。 チャンスとはそういうものだ、という教訓である。チャンスは好運と解釈してもよいだろう。ぼんやりしていたら、せっかくめぐってきたチャンスや好運を捕らえ損ねてしまう。こちらも十分な心構えを作っておいて、「よし、チャンスがやってきたら絶対に捕まえてやるぞ」その準備があってこそ、はじめてチャンスや好運をわがものにすることができる。 それは、いったん取り逃がしたチャンスは、確かに追いついて捕まえられるものではないけれど、チャンスの神様は思いのほか何度も走ってくる、ということだ。一回こっきりではない。だから逃げられてしまい、「まずかったなあ」と後悔していると、また向こうから走ってくる。今度も取り逃がし、ようやく、「次こそ」と待ち構えているとやっぱりノコノコと走ってくる。そこでつかまえればよろしい。

変色した新聞の切り抜きには「夜の風見鶏」チャンスの神様、阿刀田高とある。1996年2月18日の文章である。よくできた話で、物書きを生業とする人の深い素養に触れて、これを機に阿刀田氏の著書を読み始める。あとで、この前半部分は神話からの引用であることを知った。阿刀田氏はぼんやりしていたら巡ってきたチャンスや幸運を取り逃してしまう。しかし、チャンスの神様は思いのほか何度も走ってくる。取り逃して後悔していると、ノコノコとまた走ってくるという。折に触れて、準備不足でチャンスを見過ごしたり、見落としたことさえあったのではと落胆していると、これからも幾度となく、私の横を髪をなびかせて走ってくれると慰めてもくれている。当時、私は読み重ねるうちに、癒されながらも釈然としないものを感じた。同じ神様が何度も私の横を走ってくれるのだろうか、これは神を信仰しない者には無縁の話なのか、などと思うのである。できれば、チャンスの神様はスプリンターではなくマラソンランナーであってほしい。たくさんのサブ3、サブ4レベルの神様が前髪をなびかせながら裸で走っている。その中には仏様の姿も見える。吸水ポイントで、準備をしてきた幾つかのスペシャルドリンクを抱える私に、数人の神様がスピードを緩めながら近づいてくる。手渡したドリンクが気に入ってくれたなら、私は飲みながら走る神様と並走しながらチャンスをうかがう。冷静さを失わなければ前髪をつかむ確率は高い。仏様が来たらどうしよう、頭頂部で髪を結っているなら歓迎だが、髪を激しく逆立て、牙を見せながら近づいてくる仏様はできればスルーしたい、などと迷走する思いを楽しんだ。

テレビでは異例のお盆休みだと誰かが深刻な顔をして話している。疲弊した外食産業は、今も見えないウイルスに神経をとがらせながらの商いが続き、関係者は自分がコロナウイルスに感染することよりもレストラン経営の先行きを案じていると思える。政府が終息宣言、自治体の自粛解除、そして雇用不安への対策が進まなければ人為的需要は喚起されない。財布にお金が入ってくる目処が立たなければ外食や買い物に行く機会は少なくなる。アフターコロナの世界、今までの状態に復することではない、新しい時代が始まると説く人も多い。不謹慎かもしれないが、コロナショックを奇貨として炙り出された飲食業界の諸問題は、新しいビジネスモデル設計へのエビデンスとして生かせる可能性が高い。パラダイムシフト、そこではたくさんの神様が集まってスタートの合図を待っている。持久力を競いながら、チャンスの神様はエンドレスで走り続ける。これまでも出会いはあった。もちろん、追いかけたことの方が多いのだが時には訪問を受けたこともある。手渡せる機会は巡ってこないかもしれないけれども、これからも沢山のスペシャルドリンクを作り続けながら待ちたい、と思うのである。

[掲載日:2020年9月3日]