記憶に残る「おいしさ」を残す

大川 尚宏さん
「御影ジュエンヌ」オーナーシェフ

今や世の中には食の情報があふれています。インターネットを見るまでもなく、テレビや雑誌などあらゆるメディアを通して食の情報に触れることができます。私どもも独自に「御影ジュエンヌ」のホームページを作成し、インターネットで閲覧できるようにしています。私のプロフィールも載せていますが、公開する内容は必要最小限にとどめています。それは、来店していただくお客さんにはいろんな情報を詰め込まず、私の料理を思うままに味わっていただきたいと考えているからです。
たとえば、インターネットには私の料理に限っても過去のものから現在供しているものまでいろんな映像を見つけることができます。同時に、私の料理を食したお客さんの、その時々の感想を書かれた文章や専門家の批評も読むことができます。ただ、こう思うのです。こうした映像を見たり文章を読んだりしても、料理を実際に口にしなければ味わったことにはならないだろな、と。
と言うのは、私は10代のころから実際に食べてみて味わう体験を意識的に重ねてきたからです。料理を学ぶならフランス料理をマスターしようと決意したものの、若輩の私に基礎から手取り教えてくれるところなんてありません。西洋料理店での修業の合間に、各地のフランス料理店をはじめ各種レストランへ行って席に着き、全身で目の前の料理を味わうことから自分なりに学んでいったのです。体験を拠り所にした記憶が自分にとっては大切な情報でした。振り返れば、現在のように情報が過剰にある時代ではなかったので、記憶しか頼りになるものがないという環境でもありました。

味は音楽のように記録したり再生したりできません。それだけに、体験や記憶ということはよく考えておきたいのです。私がコースにこだわるのは、味わいを一連の流れとともに記憶してもらうことにあります。アミューズに「赤ピーマンのムース」を作り続けているのは、コースの最初に私のいまを示したいからです。この料理は多くのフレンチレストランで作られていますし、レシピもよく知られています。アレンジしたりせず、正統なままを供することで自分なりのフランス料理におけるスタンスを示すのです。もちろん、その味は常に変化しています。私が作る「赤ピーマンのムース」を実際に食して味わいを体験してもらってこそスペシャリティの意味があるのだと思います。
独り立ちしたころは出張料理人の走りみたいなことをして、依頼された家庭にでかけ、そこでコース料理を作っていました。それを原点に、フレンチの激戦地神戸の御影にあえて店を構え、ビストロから始め本格的なフレンチレストランへとスタイルを変えながら前へ前へと進んできました。そうしながら追い求めていたのは、シンプルですが「おいしさ」につきます。自分のなかで醸成された記憶が「おいしさ」につながり新たな料理が生まれるように、これからも「御影ジュエンヌ」のお客さんにとって特別な「おいしさ」の記憶を残してゆきたいと思います。

昨年には念願だった店の拡張を行いました。隣のテナントが店仕舞いした後の空間を利用して、エントランスと客席の間にゆとりが感じられるスペースを設けることにしたのです。コロナ対策でなにかと制限の多い時期でしたから、工事期間は思い切って休業し、狙い通りの改修ができるようにしました。御影に店を構えて30数年、この店は私のキャリアとともにあり、前へ前へと進んできた記憶がまさにつまった場でもあるのです。

大川 尚宏(おおかわ たかひろ)プロフィール

1960年京都府生まれ。中学卒業し料理人の道へ。ホテルの西洋料理に感化され、フランス料理の料理人になることを目指す。しかし店を転々としながらの修業で、食べ歩きと独学で補いながら腕を磨く。30歳前に夫婦で始めた出張料理が評判となり、独立を決意し1989年神戸御影に「ビストロジュエンヌ」を開業。1999年「御影ジュエンヌ」に改名し現在に至る。2020年農水省料理人顕彰制度「料理マスターズ」を受賞するなど、名実ともにフレンチのマスターになる。

[掲載日:2022年9月1日]