料理だけではない、世界観を教えてくれた 中村 秀太良さん

「中学3年の時に亡くなった母がとても料理の上手な人でした。うちの家は滋賀の日野町で昔ながらの米作りをしている農家だったんで、珍しい食材や料理が食卓に出てきたわけじゃないけれど、お寿司や白い米の美味しさは憶えています。バラ寿司や箱寿司、秋になると山で採ってくる松茸を入れた炊き込みご飯。そして、日野菜の漬物と食べるご飯」。と語るのは祇園「山玄茶」ご主人、増田伸彦さん。
なかでも、とても記憶に残っているというのが、小学校6年のときにあった地区の文化祭のこと。婦人会のバザーでお母様が作ったきつねうどんのダシの旨さ。「あのダシの味ははっきりと憶えています」。そんなお母様の影響もあってか、小さな時から料理が好きだったという増田さん。「中学1年になると母は入院してしまったんですが、自分で食べるものは自分で作っていましたね。それが全然苦にならなかった」。
そういうこともあってか、高校を出る頃には、料理人になろうと考えていたのだという。会社や工場勤めではなく、一国一城の主になりたいという想いがあり、まず修業をはじめたのは、西木屋町の「瓢正」。とても厳しい店だったそうだが、高校を出たての少年にとってはそれがよかったと振り返る。約5年間勤め、さらに腕を磨きたいという時にお父様の知人から紹介されたのが、「招福楼」だった。
でも、増田さん「実は、招福楼というのがどういう店で、どこにあるのかも知らなかったんです」と。でも、まわりの人から話を聞かされ、たまたまご縁のあった、いろんな方から口添えもいただき、無事、厨房に入ることができた。とはいえ、そこで20年も世話になるとは思ってもいなかった。増田さんは当時23歳だった。
当時の招福楼のご主人、中村秀太良さんがいつも増田さんら板場の人たちに語りかけていたのが「料理人ではなく、文化人であれ」ということだった。そして、招福楼の世界はそれまで増田さんが考えていた料理の世界とはすべてにおいて次元の違うものだったという。料理はもちろん、禅、書、建築、華、すべてに精通している卓越した存在が生み出す空間。お付き合いされている方もすごい人たちばかり。大正時代のバカラに乾山の器などが普通にあって、いつも良いもの、本物に触れることが出来たということは、増田さんにとって大きな財産となった。
そして、招福楼での修業は、ただ板場にいただけではなかった。ご主人の運転手も任され、一緒に行動することが多かった。当時、名古屋やポートピアにあった支店の視察に行っては、一緒に食事をし、道具屋さんについて行っては道具や器の話を聞き、店の中では勉強できない多くのことを学んだ。
最初の10年間は料理人として技術を習得したが、残りの10年間はそれ以上のことを学ぶこととなった。「部屋の花は毎日生け、設えを学び、掛け軸は毎日かけて巻いているうちに読めないような字も読めるようになりました。器遣いにも学んだことは多かった。素晴らしい器もたくさんあったけれど、たとえ高価とは言えない器でも盛り方、演出の仕方で良い料理が出来ること。中村秀太良という人間のセンス、物の考え方をより知ることで、自分自身のキャパシティが広がったと思います」。ただ旨い料理を出すだけの店なら10年も修業すればいいが、料理人としての深みを出すにはさらに10年の歳月が必要だったのだという。
増田さんが勤めはじめて20年、長年勤めた「招福楼」を辞め、そしてついに一国一城の主となった。場所は、生まれ育った土地から程近い、水口。名前には、「三玄」(=三つの奥深い真実)からとった。「招福楼」の世界観を受け継ぐような店名だ。
開店当時から交流のあった祇園「さ々木」が移転することになり、その跡に店を構えることになった。水口で店をはじめて7年目のことだった。それは、水口という場所の限界を感じはじめていた時期でもあった。「招福楼」で学んだことすべてを出せると思い決断したこの祇園の地。以来、3年。「招福楼」のエッセンスと増田さんの世界観が融合した店は高い評価を受け続けている。
[2010年7月5日取材]



住所 | 京都市東山区祇園町北側347-96 |
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TEL. | 075-533-0218 |

[ 掲載日:2010年7月20日 ]