「心を尽くす」ことを学んだ 森田 一夫さん

松本 純さん
寿司「鮨 まつ本」主人

「旨い寿司を握ればいいと思っていました」。主人の松本 純さんが少し遠い目で語る。お客さんは寿司を食べに来ているのであって、自分に会いに来ているわけではない。不遜かもしれないけれど、しゃべる必要なんてない、それが本音でもあった。
1年半前、ある寿司職人が店を訪ねて来た。松本さんの仕事を見つめながら、彼は一言、「どうして小さく握るんですか」と訊ねたという。お客様に色々種類を食べてほしいから、現在の流行りでもあるから、言葉は様々に頭をめぐったが、どれもその人を納得させるだけの説得力がないような気がした。松本さんは返答に窮した。「どんな寿司を握るんだろう」。好奇心から、すぐにその人の店へ予約を入れた。
一ヶ月後、松本さんは金沢の『小松弥助』にいた。カウンターの向こうでは、先日のお客、森田一夫さんが寿司を握っている。出された寿司は、自分の握るものよりひとまわり大きい。「たくさん食べられないな」。そう思って周りを見ると、年配の客も女性も誰もが笑顔で、幸福そうにパクパク食べている。森田さんは仕事の最中もほほえみを絶やさず、お客さんに必ず言葉をかけ、店はあたたかな活気と賑わいに満ちていた。
「自分の店とは真逆の雰囲気、そして真逆の寿司に心が揺れました」。

心動く経験は今までもあった。東京で寿司屋行脚をするたび、端正なにぎりに感動したり、仕事の丁寧さに感嘆したり、玉の口溶けに感激したりすることはいくらでもあった。「でも、人間味に魅せられたのは森田さんが初めてでした」。
それは、ある機会を得て森田さんと一緒に『まつ本』のカウンターに立った時、さらに強い衝撃として松本さんを襲った。「イカに庖丁を入れていたら、切れ端が刃にくっついた。それをまな板でこそぐように取ろうとしたら、『イカに失礼だし、みっともない。素材にもっと敬意を払いなさい、見られていることをもっと意識しなさい』と叱られたんです」。
「見てなさい」。そう言って森田さんは寿司を握った。一切の無駄がなく、磨かれたように美しい所作だった。旨ければいいのではない。客に、素材に、寿司に心を尽くすということの意味を、松本さんはこの時、初めて実感した。「私はいろんなものに影響を受けているんです。食べ歩きもそう、舞台を見て、音楽を聞いて、本を読んでいいなと思うこともそう。若いあなたからも学ぶところがたくさんあります」。80歳を超えた森田さんでさえ途上にある、その事実に松本さんは打たれた。同時に、東京ではなく金沢で、誰にも似ていない寿司で客をもてなし、全国から人を呼ぶ。その偉業を支える一端にふれた気がした。

森田さんとの出会いは、松本さんの意識を変えた。
まず、お客と言葉を交わすようになった。「声をかけると返してくださる。美味しかったよという言葉がどれほど自分の力になるか、遅まきながらその大きさを知りました」。結果として店の雰囲気も柔らかくなった。店主の人柄や、そこで交わされる言葉が時間を豊かにし、居心地のいい空間を作り上げていくことを自分の店で目の当たりにした。
そして寿司。「それまでは"斬新"や"流行"を意識していたけれど、クラシックに比重を置くようになりました」。定期的に行っていた寿司屋巡りも、気鋭店から老舗中心に替え、「寿司は削いでいくもの」という考えに行き着いた。「おまかせ」の構成も、従来のつまみ重視を止め、「寿司を食べてほしい」とにぎりに重心を置き、酒の種類も減らした。「奇をてらわず、地に足の付いた寿司」こそが、今自分の目指すものだと松本さんは言う。
「少年時代はどこか冷めていて、一生懸命になることをしなかった。けれど今、寿司に関してだけは、一番になりたいと思うんです」。すごい人は周りにたくさんいる。知らないことも習得すべき技もまだまだある。けれど、自分を支える想いとして「誰にも負けたくない」と言葉にできるようになった。「あなたは私の仕事を見たし、私の言うことを聞いた。もう大丈夫、がんばりなさいよ」。その傍らには、師と仰ぐ人から贈られた大きな励ましの言葉がいつもある。

[2010年12月9日取材]

写真奥はマグロのづけ、手前が森田さんに習ったイカ。三枚に剥いだイカをさらに刻んでにぎる。「見た目の美しさだけじゃない。食べて初めてその造形の意味が分かる寿司でした」。また、おまかせでは「握らない」寿司、今の時期は白子の蒸し寿司が登場する。「創意も少しは加えつつ、流れに変化を付けています」。
「最近、外国人のお客さまも増えてきました。世界的な認知度の高さを知ると同時に、寿司の本質が置き去りにされていることも目の当たりにします」と松本さん。先日の客はシャリがあたたかいことに驚いたという。曰く「冷たいのが当たり前だと思っていた」。
寿司「鮨 まつ本」
住所 西宮市樋之池町2-33 セルシェール苦楽園 1F
TEL. 0798-74-5499
「神戸」が新しく加入した2010年「ミシュラン関西版」で2ツ星を獲得した。にぎりを主軸にクラシックとオリジナル、両極を自在に行き来する寿司を握る。父上も同職だった。

[ 掲載日:2010年12月20日 ]