パンへの固定観念を覆してくれた 荘司 索さん

西川 功晃さん
「サ・マーシュ」オーナーシェフ

「人生を変えた人は、『コム・シノワ』の荘司索シェフです」。折々にかけがえのない店や人との出会いがあったと前置きしながらも、西川功晃さんはそう切り出した。二人の出会いは西川さん28歳の時。洋菓子からパンへ、目指す道が定まり職人として自信を持ち始めた時期だった。当時、神戸の『伊藤グリル』に勤めていた兄から聞いた「素晴らしい料理を作るシェフがいる」という話。西川さんは早速その店へ出掛け、食事を堪能してシェフと向き合った。
料理はもちろん、西川さんを震わせたのは店で出されたパンだった。「ポテトパンは衝撃でした。小麦粉と水とジャガイモを、こねないで合わせただけ。食べたらジャガイモの風味が強烈で、『思わず、これはパンですか?』と聞いてしまったぐらい」。パンとはこうあるべき、という固定観念が荘司シェフには全くなかった。「パン職人としての感覚が覆されました」。西川さんは自分の驚きと感動を素直に告げた。「パン屋さんと力を合わせればもっと面白いことが出来るのに、そういう人になかなか巡り会えない。あなたとなら出来るかも知れない。いつか一緒に店をしましょう」。荘司シェフはそう答えた。
以降、二人は年に一度、顔を合わせては互いの夢を語り合うようになった。「理想はパリの『フォション』。専門店ではなく、惣菜、パン、ケーキと食周りのものを多数扱うことで食文化を発信する。そういう店を形にしたかった」。

神戸を阪神・淡路大震災が襲った1995年、西川さんはフランスにいた。直後に帰国、やつれ果てた荘司シェフと再会した。
「『コム・シノワ』は無事でした。でも、冷蔵庫の高級食材では被災者の空腹を満たすことはできなかったと、荘司シェフはとても悔しがっていた。日々を養い、人々の日常に寄り添うパン屋をやろうとシェフが言ったのはその時です」。何年もかけて二人が暖めてきた夢とは異なる店の形態。それでも思い留まる理由はなかった。96年、『ブランジェリーコム・シノワ』がオープン、『ブランジェリーコム・シノワアンドオネストカフェ』が後に続いた。
一緒に働くようになってからも、西川さんは荘司シェフの発想に度肝を抜かれることが度々あった。レストランで秋に出すプチパンを作ってほしいと頼まれた時、シャンピニオンを即座に思い付いた。作って見せると、「イメージはもっと立体的なんだ」という反応。それなら、とセルクルで胴の部分と笠の部分を別々に作り、合体させて焼き上げた。「これがほしかったんだよ」。出来上がったキノコパンを見てシェフは大喜びした後、こう付け加えた。「中に本物のキノコを入れよう。すると、お客さんは二回喜んでくれる」。
日の目を見なかったパンもあった。とあるブランドのパーティーで荘司シェフが料理担当となった。「メインディッシュはパンでいく」。シェフは西川さんにそう伝えた。「縄文時代から届いたヒナ鶏のパン」と題されたそれは、土器に見立てたパンにヒナ鶏を包み焼き上げたもの。客はパンをちぎり、鶏やソースに絡ませて食事をするという。「ポテトパン」をベースに、ドングリの粉を用いて土の風合いを醸すパンを試行錯誤の末に完成させた。現地での打合せに嬉々として出掛けていったシェフから夜、電話があった。「先方がメインは高級食材じゃないとダメだと言う。残念だけど、これは二人の大切なアイディアとして取っておこう」。電話口で涙を流しながらシェフはそう言った。
「発想の斬新さに支えられたパン作りの幸福を、荘司シェフは身をもって教えてくれた。一緒に悩み、一緒に喜んでくれるから、こっちはもっと頑張りたくなる。人を見て、人を育て、人の気持ちを動かすことができる希有な人です」。

2010年9月、『コム・シノワ』から独立した西川さんは『サ・マーシュ』をオープンした。これからのパン業界が人々の暮らしに寄り添い、日々を繋ぐ一番大切な「食」を担っていくためにも、自分がすべきことは今一度、土台となる生地の大切さを伝えていくことだと考えたからだ。その思いを具体化したのが「コメ・パーネ」。米粉を主体としたもちもちとした生地は、イタリア語で「パンのような」という名の通り、パンに似てはいるが全く異なる印象を残す。
また、近隣のレストランからリクエストを受けるのもいい刺激だと表情を崩す。神戸の料理人と組んだ新企画も進行中だ。未来の食卓に向けて、現在、食に携わる自分たちができることは何か。それを考え続けているという。
「何事にもとらわれず、己の感性を信じること」。荘司シェフから学んだすべては種となり、西川さんという豊かな土壌に撒かれた。芽吹き、実を結ぶ日が、大きな希望としてこれからにある。

[2011年3月14日取材]

スタッフと相談しつつ購入するパンを決めるのが『サ・マーシュ』流。「昔の八百屋や魚屋のように、今日のおすすめ、美味しい食べ方、新しいパンの紹介など、言葉を交わして理解を深めてもらうために敢えてこのスタイルを選びました」。
「生地の美味しさを伝えたい」との言葉通り、扱う割合はハード系、食パン系、惣菜パンが4:3:3。カンパーニュなどの売行きも上々だとか。
左が新種のベリー・ボイゼンベリーを使ったプチパン263円。右はクロワッサン・セーグル126円。ライ麦パンに米粉のクロワッサンを閉じこめ、噛みしめるとおかきのような滋味深い味わいが楽しめる。
米粉のドゥミバゲット158円。
カリッと焼き上がった表面は紛う事なきバゲットそのもの。しかし、中はむちむちと密度のある生地が詰まって、バゲットを食べていることを忘れてしまう食感。「和食に合う」と京和食の料理人からも好評だとか。
「サ・マーシュ」
住所 神戸市中央区山本通3-1-3
TEL. 078-763-1111
ゆるやかなカーブに誘われてアプローチを往くと白亜の一軒家が待つ。オリーブの植えられた中庭には甘く香ばしい香りが満ちて、木製のドアを開ける前から期待に胸が高まる。

[ 掲載日:2011年3月24日 ]