「フランス菓子」と「スタッフ」のこと

「美味しいとか美味しくない、ではなく“印象に残るお菓子”を、作り続けたいんですよね」。服部勧央シェフの、その一言が印象的であった。確かに。「パティスリー ラヴィルリエ」で供している『タルトタタン』は、黒に近い艶やかな茶褐色。口に運べば、リンゴの甘味と酸味、香りが凝縮していて、ねっちり焼き締まっている。その濃くも深い味わいにハッとなるのだ。まさに記憶に残る味———。
服部シェフが飲食業界に入ったきっかけは、フランス料理への憧れだった。「高校卒業後、フレンチをやりたくて入った先がフランス菓子店でした(笑)」と当時を懐かしむ。地元・岐阜の名店「ル・ポール(閉店)」だ。もう30年近く前のこと。「洋菓子全盛の時代にも、『ル・ポール』では、ムース・オ・ショコラやサヴァランといった、ちゃんとしたフランス菓子を提供していました。あの店での経験が、僕の礎にあります」とシェフ。その後、ピエール・エルメがエグゼクティブシェフを務めていた、パリの「フォション」を訪れた時のこと。「とにかく甘くて濃くて苦くて、グッとフランスを感じる」エクレール・ショコラに衝撃を受け、エルメ氏著書「Pierre Hermé SECRETS GOURMANDS Relié 」(日本では、『ピエール・エルメのお菓子の世界』として販売/柴田書店)に出会い、どんどんフランス菓子に傾倒する。「日本の懇切丁寧に書かれたルセット本とは真逆の、文字のみの本。だから、作り手がしっかり考えながら作らないと、ひとつのお菓子が完成しない」。とにかく想像力を掻き立てられる表現に満ちていたという。大阪での修業先「ヒロコーヒー」で同期だった橋本太さん(「アシッドラシーヌ」オーナーシェフ)とは当時、エルメ氏の本について語り合った仲。「職場はコーヒー店なのに、僕らはお菓子の話題ばかり。お互い“なんだこいつ?”って思ってましたね(笑)。僕と橋本くんを生み出した本かもしれません」と微笑む。
その後、名古屋や東京での修業を経て、大阪・神山町に09年、自店をオープン。本格的なフランス菓子をとことん追求し、瞬く間に人気店となる。12年12月には、扇町公園近くに移転し、今に至るのだが「じつは1年半くらい前に、店を閉めようかと悩むくらい、大きな挫折がありました」とシェフはぽつり。
「とあるフレンチレストランで、フランス人パティシエが作るデセールを食べました。味のパーツが8層、いや13層にも重なり合っていて、見事なハーモニーを奏でている。日本人である僕が、どんなに努力したって、フランス人のDNAに潜むセンスを超えられないなと」。フランス菓子を愛するあまり、大きな壁にぶち当たったのだ。
自分ひとりであれば、全てをリセットすることもできた。いや待てよ、と思い留まることができたのはスタッフたちの存在だった。「将来、この子たちが飲食業界で楽しみを見つけながら生きていくには? その土壌がまだ備わっていないなと。僕にできることはまだまだあるのでは?」。そう気づいたのだ。「僕がスタッフに渡せるものは、いっぱい渡そうと」。
そこには大きな賭けもいくつかあった。当初は、スタッフに任すことが多ければ、失敗も少なからずは出た。「失敗したら、なぜそうなったのか?を一緒になって突き詰める。互いに言いたいことを言える環境作りを徹底しました」。挫折しそうな子がいてたら、「昔は“一緒に頑張ろう!”と熱く語ってしまい、余計な重荷を背負わせてた。でも今は、テキトー(笑)。悩みがあれば、“ラーメンでも食べに行こっか”てなノリ。少しのコミュニケーションが生きてくるし、その方がスタッフが萎縮せずのびのびやっていける」。だからなのか、「ラヴィルリエ」に人手不足という言葉は存在しない。近い将来、スーシェフの井上朝美さんは三重県に出店するパティスリーのシェフを務める予定で、3番手のパティシエ・大畑慶一さんには「本店を任せたいと思っています」とシェフ。「フランス菓子を表現することの大切さはもちろんありますが、“こうでないといけない”とは思っていません。僕らしさやスタッフらしさが融合した、お客様に「いいね」と感じてもらえるお菓子を作り続けることができれば」。
今後の服部シェフは? 「日本人としてのアイデンティティを大切にしながら、お菓子作りをすることができれば。数年後には、『ラヴィルリエ』をスタッフに任せきって、ひとりで1から10までできる新たな店をやっていたいですね」。
[2018年10月20日取材]



住所 | 大阪市北区山崎町5-13 |
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TEL. | 06-6313-3688 |
営業時間 | 11:00〜20:00 |
定休日 | 火曜、水曜 |

[ 掲載日:2018年12月20日 ]