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「蒸す」Program 3:ディスカッション
Program 3:ディスカッション
講師紹介

木下 幸治氏(<辻調グループ>エコール 辻 大阪 フランス料理主任教授)が加わり、出演者全員で討議。料理デモをもとに、蒸すことについて意見を交わしました。
進行:門上 武司
門上 今日は考えなければいけないことがいくつも出てきたように思います。最初に川崎先生から分解と再構築の話があり、「分解・再構築・検証」というプロセスをどう考えるか。途中で、和と洋の議論も出ました。「素材の持ち味を生かす」というのも、どういうことなのかと提起されました。最後に南さんが果敢にあの料理に挑戦されて、実はコーヒーとかカレーもチャレンジされていたのですが、香りがほとんどなかったと、うかがいました。古典的な料理を考え直すことも大きなテーマになるかな、と感じています。「蒸す」というテーマでいろんなことが出てきたと思いますが、木下先生、全体をご覧になって、どのように感じられましたか?
木下 「蒸す」という料理は時代的には古い料理だと思うんです。僕の記憶では、フランスには1980年代にアラン・サンドランスのアルケストラートというレストランがパリにありました。そこに蒸し器の機器があったと思うんです。縦長の機器で、入り口は潜水艦のハッチみたいなのがあって、中に入れてしっかりと扉が閉まるものでした。使い勝手が悪かったのか、あまりパッとしなくて日本にも入ってきませんでした。蒸す料理は最近はすっかりしませんが、こんなものもあります。1825年に発行されたブリア=サヴァランの著書『美味礼讃』では、ヴァリエテの項9番ヒラメという項目があります。その物語は、女料理人が大きなヒラメを手に入れたが、それが入る鍋がない。そしたら、簀の子を上にネギと香草を乗せて、ヒラメを乗せて、またネギと香草を上に乗せ、大きな桶をかぶせ、周りに砂をおいて蒸しあげたという話があるんです。液体に何かの香りを入れるよりも、ネギと香草をサンドにして、蒸しあげた方が素材の水分も出なくて香草の香りがついたりするというのが出てくるんですね。それ以降、フランス料理は全く蒸し器を忘れていまして、1970年代のヌーベルキュイジーヌに、蒸し料理をしようかなと思った程度です。その時でも、ほとんど蒸気を使っていません。高速オーブンだけで、コンベクションは使っていない。そんなんで、フレンチは蒸すことにあまり興味をもっていない感じですね。
門上 現代はいろいろ使われるようになっていますよね。
木下 それでも、フランスでは、スチームを入れることはあまり考えていないような気がします。オーブンが発達しているところは、水分を入れて蒸すということが発達していないですね。高速で短時間で火が通りますから。むしろ、オーブンをもっていない地方には「蒸す」という料理が多いのではないでしょうか。
門上 山口さん、フランス料理は「蒸す」ということを忘れたということですが。
山口 水蒸気というのはあっても、確かに「蒸す」というのは、あまりないですね。逆に、僕がフランスから、湯がくということを日本に持ち帰った時、「蒸す」という方がいいなと思ったくらいです。同じものをつくるためにテクニックを変えたということなんです。素材を出したいのか、出したくないのかによって手法が変わってくるので、道具の一つとして理解はしているけど、その出番があるかどうかの違いだと思います。
門上 道具の使い方というか、川崎先生がいわれたセンスとかデザインにつながっていくわけですね。
木下 「蒸す」料理は、フランス料理にもあるんです。例えば、昔は豚の膀胱を膨らませ、そのまま乾燥させて、また水で戻したベッシーという料理がありまして、豚の膀胱が風船みたいに膨れるんですね。そこに鶏を一羽入れて、ポルト酒とか野菜を入れて口を閉じ、それをお湯の上に浮かべて火を通すという料理です。お湯の上に浮かべるんですが、鶏は中のお酒で蒸されている。そういうのもあります。スズキのパイ包み焼きもあります。パイで包んでしまうことで、素材が中で蒸されている。蒸し焼きですね。フランス料理は水分が少なくなっていくと名前が変わっていきます。プレゼよりも水分が少ないのはポワレ。今、ポワレというと、フライパンで焼くようなことばかりいわれていますけど、ポワレは水分が少ない。もう少し多くなるとエチュベといいまして、野菜と肉を一緒に入れて蓋をして蒸す。野菜だけの水分で蒸しあげるという料理ですね。フランス料理では蒸し器というものがあまり発達していなくて、忘れられているということですが、「蒸す」という料理法はあるのです。
門上 蒸すことからアクの話が出てきて、「素材を持ち味を生かす」ということの検討になりましたが。
山根 素材をどう表現するかは国とか料理人の考え方が出てくるところだと思います。イタリア料理は、そのままの素材の味をストレートに出そうとしているので、逆に凝縮もしないし、広げもしない。茹でると、水溶性のものは味が茹で汁に出てしまうので、味が薄くなる。表面の味がぼやけてクキッとした素材感が出ない。食感ではなく、味ですね。素材の濃い味が口に入った時にぼやけるのを避けたいとなると、茹でにくい。茹でないで、蒸すか、蒸し煮とか蒸し焼きとか、プレゼとか。素材のもっている水分をぼかして、その水分で蒸すようなイメージです。そうすれば何も水分を加えもしないし引きもしない。ちょっと引くくらいが一番濃く感じるかな。今日のは調理方法としての「蒸す」テクニックを使った表現であって、料理としての組み立てはシンプルで、あまり手を加えないし要素も増やさないで料理をしました。広げ方は素材の魚を変えても変わらない。皆さんに出すのに値段的にもそんなに高くなくて、今の季節で手に入る魚ということで、スズキになったんです。キンキでもマスでも何でもよかったんです。
村田 そやけど、水によって料理は影響を受ける。硬い水で湯がいた方が、野菜の持ち味が中に残ったままということもある。日本の水でホウレンソウを湯がくとグリーンになるけど、ヨーロッパの水でホウレンソウを湯がいてもそういう色にならない。イタリアではパスタを湯がくのは軟水。硬水で湯がいたらもっと簡単にできるかもしれないとも考えます。日本では日本中に軟水が出ているのが料理の基本になっているので、水を使う料理が多い。何でもかんでも水で湯がいて、だしで炊くと、ヨーロッパの人には平坦な道を淡々と歩いているようにみえる。苦味もアクもみな、野菜の持ち味で野菜の中に入っている。一つのリズムとして僕らは「和をもって貴しとなす」という料理をつくるわけ。山根さん、山口さんは、皿の中でバイオリンがあったり、ピアノがあったり、食べた時のハーモニーを考えて料理を構成する。僕らは一つひとつのもので「和をもって貴しとなす」を続けていく。これは、全然違う料理のアプローチです。でも、日本料理の場合、これから考えていかないとあかん時代に入るのやろなと思う。「和をもって貴しとなす」で、淡々と平坦な道を歩いているばかりでは、多分あかんのやろな、ということを今日はつくづく感じました。



門上 西洋料理との比較ですけど、中国料理はどうなんですか。
村田 中国料理は場所によって違いすぎます。一般的に水が悪いというのは共通しているかもしれませんけど、中国料理はすべての要素が全部入っている。フランス料理の要素もイタリア料理の要素も日本料理の要素も、すべからく中国料理の中のどこかの部分に入っているのが多いのではないか。世界的な料理を包括したような料理でしょう、多分。中華というくらいやから。
門上 南さん、中国では乾燥させた食材が多いですね。素材の持ち味を生かすということで、中国料理において素材を生かすとは、どのようにとらえておられますか?
南 アクという意味でいうと、中国料理ではアクも味のうちというところが多いですね。例えば、日本の筍と中国の筍の違いは、下処理をするかしないか、とか。素材が違うとはいえないですけど。
門上 村田さんから、中国料理には各国の調理要素がどこかに入っていると指摘がありましたが、そのへんはどう理解されていすか?
南 そうですね。もともと中国は、いろんな文化を取り入れてきましたから。都が変わるたびに、どんどん別のものを取り入れて、次の世代に伝えてきているような。指摘されたことは確かにあると思います。
門上 川崎先生も中国料理を研究されていて、中国料理のあり方はどういうふうに?
川崎 素材を生かすことと、アクも味のうち、といわれるのが中国料理です。日本ではアクを食べさせるためには油によるマスキングが必要ではないかと思われます。オイルがなかったらちょっと辛い。そういう部分は大きいと思うんですね。「素材を生かす」というのは、いろんな定義があり得ると思います。けれど、素材がもっている隠れたものに対し、見方や切り口を強調して伝えるのは料理人の腕。生の食材だけをみていれば、乾燥は持ち味を殺しているようにみえるかもしれないけれど、乾燥させることによって、ある種、変身させているわけです。その変身した部分をどうやってお客さんに伝えるか、ととらえると乾燥も素材を生かす新たな面ではないかと考えられます。
門上 「持ち味を生かす」、そこに川崎先生がおっしゃった料理人の個人のセンスが入って、もっている力をどのように料理に生かせていくかということが大事なのかなと。
川崎 一言でセンスといいますが、そのセンス、感覚には、それをもつ料理人の文化的な背景、ジャンルの背景、生きてきた経験など、全部がありますし、その人にしか見えない素材の特徴もある。山口さんの見えている面も村田さんが見えている面も違うという、それがセンスの違い。そうしたことを感じ取るところが、また面白い。
村田 「素材の持ち味を生かす」というけれど、素材の持ち味を生かす料理人は、素材に対してリスペクトがないねん、きっと。素材は自分でわかるほど単純なものではない、という認識が基本にあれば、「素材の持ち味を生かします」とはなかなか言えへんと思います。
門上 「素材の持ち味」ということだけでも、これだけ違う。いろんな人の、その人の経験、知識によって非常に違うんですね。関西食文化研究会は、いろんな経験を積んでいく中で、どんどん変化して成長していくメカニズムをもっていると思うんです。科学的な見地があったり、テーマごとの歴史的な背景も含めて、回を重ねるごとに面白くもあり、難しくもあり、やれることがドンドン増えてきています。今日の「蒸す」について、木下先生から総括をしていただきます。
木下 我々が考えないといけないのは「自分の経験を基準にして、先のことを考えてしまう」ということです。かつてはアクをトコトン抜いて、他の香りを交換して入れるということをみんながやっていたと思うんですね。また、いい素材であればアクも味のうち、新鮮な素材が簡単にすぐに手に入る時代になった我々の考え方ですね。人は、その時代の尺度でしか物事を考えられません。未来のことも過去のことも、現在を基準にしてしか今ここにいる我々は考えられないのです。「蒸す」という調理も、古くは蓮の葉で包んでお湯の上に浮かべたらおいしくなったとか、肉がやわらかくなってジューシーになったと、経験しながら生まれてきた。ただ、この情報が伝わるまでは時間がかかった。情報の速さは今や全く昔と違います。そのへんを加味して考えると、これから料理のセンスとかデザインというのは日本人感覚ではなく、村田さんがおっしゃっていたように、世界からみた時にはどうかということを考えるべき時代だと思うんですね。僕らが食べてほんとにおいしい日本料理を、外国のお客さんにも「おいしい」といわさないといけない、ということを考えると、日本料理も変わってくるでしょう。 私は、たくさんの料理人の集まりにも出ていますが、本会は、非常に知的な会になっていると思います。どうぞこれからも皆さんにご参加いただきたいと思います。皆さんと一緒にこれからの料理を考えていきたいと思います。
門上 ということで11回目は「蒸す」をテーマにいろんな角度からお話をしていただきました。皆さん、どうもありがとうございました。次回は6月、京都に会場を移して開催したいと思っています。




