Program 2:意見交換とディスカッション
講師紹介

村田 今回、若い人は科学的な立証と論理的な構築が、どれくらいできるかなと思っていたんです。これまで、そういう考え方がないまま進んできて、川崎先生と一緒に京大で研究する中で、考え方、管理、おいしいとはどういうことかを考えるようになったわけです。考えないまま料理を作ったら、いろんなことの説明が的確にできへんやろな、と思っていたんですが、今回の3人は、それがちゃんとできているので、論理と実践が合致していることがよくわかりました。
門上 今日の3人の方、今の言葉で安心していただいて、このあと、自由に発言していただけたらと思います。上野さんは最年長で、修業先の師匠、村田さんがおられた訳ですが、皆さんの意見を聞かれて、ご自分の料理プレゼンテーションの再検証を、どういうふうにされますか?
上野 反省点も出ています。古臭い人間ですから勘に頼る部分がありますので、自分の中で、もっと数値化していく部分とかも必要だと思いました。それを僕らの弟子の世代に伝えていくためには、開けた情報、数値化した情報を提供していくことが大事だと。僕は1970年生まれで、40年生きてきた経験がありますが、それ以上はお客様の方が豊富なので、その穴埋めはこれから大事にしていかいなといけない。若い人は、未来を見て、もっと作っていかないといけない。その間の世代ですので、両方に愛されるような店にしていかないといけないなと、改めて感じました。
門上 新たな課題が、一つ見つかったということですね。経験ということでは、料理は曖昧さだといわれていますが、経験も大事だと思います。未来というテーマも出てきました。木下先生、経験と未来の関係については?
木下 料理を数値化する、検証するというのは、作り手の勉強ですね。食べ手は、そんなこと考えてなくて食べてもらわないといけない。食べ手が数値のことを思うと、ややこしいことになってくるんです。お客さんから「こうやろ?」という話をされると、多分、料理人は「そんなこと関係なく食べてください」となるんですね。19世紀の終わりまでは、親方が弟子に教えるんですが、親方と弟子は監督と選手みたいで、同じにはならない。王さんが野球を教えたからといって皆が王さんになるわけではない。野球という同じ土俵でも、それぞれ違う道に行く。料理人も同じで、西洋料理をやっていても、ちょっと違う道に行く。ちょっと違うという、その誤差の曖昧さは、時代によって伝承され、継承されるものだと思います。伝承したり、継承するものは、数値で検証されるものではない。それが料理の面白みでもあります。お客さんが、この店に行きたいと思うのは、その微妙な曖昧さがあって、「僕はこっちが好きだ」「こっちがおいしい」と思って、いらっしゃる。いくら数値化しても、その部分は残しておかないといけない。お客さんには絶対、ばれてはいけない数値は、これから料理人たちが作って伝承していかないといけないのではないかと思います。曖昧さの伝承、数値を隠した伝承。今までは、技を隠してきたんですが、数値をあまり外に出さないようなことで伝承していくことが、未来のことかなと、若干、そう思います。
門上 お客さんに対して隠すのであって、料理人の中では伝承していくと?
木下 昔は「腕が違う」といわれました。伝承するのに時間がかかっていたんですね。いろんな技を見せない、「技は盗むものだ」と。40年くらい前までは、そうでした。盗む人の才能もあれば、盗ませる人にも才覚があると思いますが、その時間を無駄にしていた部分がある。それを数値化して、無駄な時間をある程度短縮できれば、そこからは年数がなくても伸びる訳です。これらの伸び率からすると、僕らの年代とは違うと思います。そこからのスタートなので、数値化することによって伝承の時間を短縮して、その後、新たな経験をしていくのだと思います。

門上 新たな経験が、その中にできていくと?
木下 僕らより、もっといろんな経験をしながら、新たなものができるというのは、すばらしいことだと思います。
門上 高山さんは、3人の中では若いですね。お二人の料理や皆さんの意見を見聞きされて、どう思われましたか。
高山 今回、テーマをいただき料理を考えて参加しました。そして、栗を食べてプリンを食べるという順番とか、空間を演出することとか、今まで考えていなかった部分まで考えさせられました。これまでは、うま味を追求することしか考えていなかったので、おいしさというのは、見た目だけでなく、空間とか香りであったり、というところを、これからは追求していきたいなと感じました。
門上 今までと違うアプローチで、一つの課題ができたということですね。藤原さんは、空間も含めて、照明という手法とか、1階の厨房が見えるところではなく、2階で料理を供するという時間差もありますよね。そういうことは、考えられたんですか?
藤原 改装にあたり、ウェイティングスペースを設けたいと思いしまして、それが前提だったんです。店は大きな道に沿っていますが、向かいはパチンコ屋ですし、場所はよくない。自分のところにどう引き込んでいくか、日本料理の店とか旅館で感じる部分があって、どうのように洋風に持っていくかを考えました。テクニック的には日本的ですが、入り口を曲げたり、ウェイティングルームで鈴虫の音とか季節の音を流したり。そこでメニューを見ていただいて、今日の料理に思いを馳せていただき、食堂に移動してもらうという流れで引き込んでいく世界観を創りだしました。どこまで達成できているかわからないですが、そういう店を目指しています。
門上 空間も含めて、というのは、料亭の世界と似通っていますね。
村田 大阪より京都へおいで。今の店をセカンド店にして(笑)。そういう点では、町から造りやすいところと、造りにくいところがあって。それをどうつくるか、空気をどう作るかは難しい問題ですよね。それも含めて、総合芸術としての食。日本料理を世界遺産登録にしようと思い、やっていますけど、文化遺産になるには、周りのそういうことであって、皿の中がうまいとかという話ではないんですね。それと同時に、京都府立大学に料理学科を設けようとしています。昔の料理人は腕やったんですが、科学的な立証とか、文化的な面とか、これからは、頭ですね。本を読まないといけないし、自分がやるべきことを、どうやって人にさせるかということですね。僕みたいな老人は働いたらいかんので、できるだけ働かないように、それをいかに論理的にやらせるか。料理人と科学者と医者は、自分が研究したことは世界に対して発表する義務がある。でないと、次の時代を開拓していくとき、その上に、ものを積めない。つなぎ役だけで10年やっていたのではしょうがないので、これからは学力と知力、文化的な面も、科学的な面も、両輪いります。ややこしいだけにやり甲斐があるだろうと思います。
門上 今日の3人の料理で、もし俺がやるなら、というところはありますか?
村田 プリンの栗は甘皮を剥いて、渋栗の方が栗の香りがしたやろうなという気がしました。コーヒーではなく、苦味を他のもので考えた方が、栗の味がしたやろな、と。日本人は燻蒸香よりも、栗を焼いた、穀物の香りの方が、ひょっとしたらいいのかもしれん。その方が、箱の中の皮は、いい香りをするやろなと思いました。それは、高温のオーブンで焼き切ったら、その香りでいけたのかな。日本人は弥生時代から栗を焼いて食べてきましたから、それはDNAの中の記憶としてあって、それがおいしさにつながるかもしれないとは思いましたね。
門上 川崎先生には2回目から関西食文化研究会に参加していただき、熟成とかメイラード反応とか、新しいテーマに挑戦してきてもらいました。若い世代にバトンタッチではないですが、新たなテーマが、また生まれてきたように思いますが。
川崎 料理は、いろんなテクニック、考え方、食文化が一皿に集約されているものなので、一つの切り口で話し切ることはできません。もっと言いたいことは、多分、たくさんあるんですよね。なんぼでもテーマが出てくるんやろうな、と思いますね。
門上 これから何をしていくかは、常にコアメンバーの中でも考えていきますが、皆さんからも、今日、3人の料理や話を見聞きしていただいて、「次は、こういうテーマをやりたい」とかあれば寄せていただきたいと思います。
今日の料理、今日の発言について、もう少し会場からもお願いしたいと思います。会場に、お菓子のマイスターがおられます。ユーハイムでバームクーヘンのできたてを食べる時があって、なぜバウムクーヘンがおいしいのか尋ねました。そのマイスター・安藤明さんの答えは、「20層くらい焼き重ねる。それは、メイラード反応を20層重ねていくわけやから、おいしに違いない」でした。栗は、お手のものだと思いますが、安藤さん、いかがですか?
安藤 バウムクーヘンは簡単に焼くだけなんですが、ドイツでは「お菓子の王様」といわれています。今日、藤原さんの栗の香りをつけることをバウムクーヘンにできないかなと思いました。燻製という手法は、すばらしいなとつくづく思いました。今日はありがとうございました。

門上 大阪の日本料理「伊万邑」の今村規宏さん、今後、こんなことをやってほしいとか、希望などありますか。
今村 毎回、テーマが興味深く、楽しみにワクワクしながら参加しています。そうですね、歴史的なものを、勉強したいなと。器とか、食器とか、なんですが。
門上 同じ料理でも器にもることによって印象が変わったりするので、器というテーマもいいですね。
木下 器といえば、今まで西洋料理では、プレートで丸いお皿が多かったのが、スペインの「エル・ブリ」のフェラン・アドリア氏が大きく変えたような気がします。石を切りだしたものを、そのまま使ったり、ガラスの器を温めて出したり。僕らの年代では、ガラス器が熱いなんてことは、考えられなくて。ガラスは涼し気だから夏のもの、ということだった。ガラスを温めてという奇想天外な発想ですね。それに、日本料理を意識したような深い器もたくさん出てきました。でも、料理人は作って盛りつけるだけなので、食べ手に神経をつかっていないような気がするんです。深めの皿にフォークとナイフでは食べにくいんですね。深い器は、日本料理のように箸でつっこんでこそ使える。だから、西洋料理のフォークとナイフも変えた方がいいのではないかと。誰も気がつかない。箸に変わるもの、ピンセットみたいなものでいいんですけどね(笑)。箸が使える手になると、頭の回路が変わってくると思うので、ピンセットでいいと思います。フォークとナイフでは、料理人が意図したところと合っていないような気がするんですね。最近、お菓子もきれいになっています。西洋料理は、食べている様子も絵にならないといかんと思うんです。運んできた時は、すごくきれいですけど、崩して食べる楽しさもあるんですが、あまり崩して食べると、食べている様子が、見た目にエレガントでない。そこも加味して作らないと、エレガンスが消えるのではないか。それが、器にもあると思うんです。日本料理は箸で食べて、あまり崩すことがない、ぐちゃぐちゃと崩すことがないので、食べている姿が、きれいだと思うんですね。
門上 お碗を運ぶこととか、器には触感もありますよね。そういえば、高山さんのプレゼンテーションは新たなスタイルでした。
高山 店では、あのスタイルでお出しすることはやっていないんです。でも、今、おっしゃったみたいなことを意識していて、作った料理をスタッフ皆で食べ、味もそうですが、女性のお客さんが多いので、一口で食べられる大きさというのはどれくらいか、ということを意識しています。食べやすさも重視しないといけないと。こう食べてほしいんですが、こちらの思いが伝わらずに、違う食べ方をされて、どう感じておられるのかなという部分はあります。そのへんはこちら側も「こう食べてください。今日は、手にとって一口で食べてください」という、作り手とお客さんの感じ方を統一させていきたいな、と考えているところです。
門上 ナイフとフォークで切る作業と、つまむというのは組立が違いますよね。
木下 器を持つか、持たないかという、民族性の違いもありますが、フォークとナイフでは、器を持たないんですね。唯一、持つとすると、両耳のスープくらいで、あれもあまり見ていると、どんなレストランにいっても、両耳がついているからといって耳を持って、ぐっと飲む人は少ない。持ってスプーンで食べる人が多い。日本料理は器を持って食べてもいいので、器と口の距離の問題ですね。どろどろしているものを、そのまま口をつけて流し込んでいいのか、つまんで食べるものか、必ず、箸でつまんで食べることを意識して日本料理は作っているのかなと。
村田 日本料理には、口内体積における食品の割合で、一番おいしい割合がありまして、ラヴィオリは、あれでいいんです。口に入れて、すぐに味がわからないけれど、噛みくだいてだんだん味がわかってくるように仕立てようとしたら、あの大きさになるんです。刺し身の大きさは12g。15gにすると固い。12gを5回入れると60g。60gがお碗一つ分で、三角であろうが、四角であろうが、向こう付になるわけで、お碗は4寸2分。お碗の大きさは女3寸8分、男4寸と決まっているわけです。それよりも一回り大きくて目立つお碗にしようということで、4寸2分の煮物碗が茶会席では中心で、そこには50gの具材と香りと添えのものと青味が入っていれば、煮物碗に仕立てられる。その中に汁が150cc入っていれば、ちょうどええ加減になるようにできているんです。
饅頭45gは、茶席で4つに切って口に入れた時に、女の人でも味と甘味が丁度口の中に浸透するようになっている。45gの饅頭をのせる銘々皿は、おのずと大きさが決まってくるわけで、これは、人間工学による器の大きさであると。それはいろんなことを調べていくと、それがそうだとわかってきた。すべからく、箸は7寸5分から8寸。これが食べやすい長さで、手の大きさから鑑みても、そうなる。ということが、建築でも食べるものでも、すべてのものが寸法から決まってきます。こんな国の料理は他にはないです。でも、フォークとナイフがほしい時もあるんです。鴨肉は自分で切って食べた方がワイルドな感じもして。鴨ロース12gに切ってあるから、つまんで食べやすいんですけど、両方あってもいいのかなと。この頃、和食でもスプーンがあって、大さじのスープスプーンは15cc。あれですくって飲んだら、15ccの液体が口に入って、味がよくわかるように作られています。ゴディバのチョコレートは15~18g。などと、すべて寸法で決まってくるので、寸法を決めてしまって、強調させたいものだけを、フォークとナイフで切らせた方が、次の時代はいいのかなと思いますけどね。
門上 西洋では、寸法はそこまで標準化されていますか?
木下 お客さんが切りたい大きさで食べてもらうことに関しては、フォークとナイフがあるから、そこで満足させていると思います。自分にとっての大きさに切れるという、個人の大きさですから。若い料理人たちは、鴨の肉を縦切りにして横に盛りつけますが、鴨のロゼ、ピンク色のものは多少固いので、昔はエギュイエットといって薄く切っていました。あまり厚くすると、お客さんが大きく切って噛めば、固く、「この肉、固いな、肉汁の出方が悪いな」ということにもなりかねません。最近は大きく塊で出すので、計算しているのかな、という感じはしないでもないです。
門上 お二人の話を聞いて、手でつまんだり、ナイフとフォークとかいろいろアプローチがありますね。高山さん、お話を聞かれてどうですか?
高山 手でつまむというのは、触覚を使うことによって、味がより明快になると思います。その意味で、デザートをはじめに食べていただくのは、楽しさが出るんじゃないかとか。この頃、肉が柔らかくなっています。鴨などは商品がよくなっているのではないでしょうか、昔のように固い鴨の肉もあると思いますが、スパッと切って、ジューシーなものもあるし、切り方も、時代とともに変わっていくのかなと思ったりもします。
木下 鴨肉なんかは、AOC(アペラシオン・ドリジーヌ・コントロレの略。フランスの農業製品などに与えられた認証)とかで守られていますから、品質は昔とそんなに変わっていないと思うのです。輸送の手段が向上して、一度仕入れてから熟成されたりすることもあったりとかの変化はあります。むしろ、食材に関しては、海外よりも日本の方が大きく変わってきているような気がします。例えば、魚とか。温暖化になって、とれる時期やものが違ってきたり。そういう点、お客さんの反応とかはいかがですか。「昔はこうだったのに」ということで、料理を変えられることはありますか?
上野 そうですね。確かに、生息している分布が変わってきていますね。7月にスズキが定説みたいにいわれていたのが、今は、7月でも近海の明石海域でのスズキは臭くて、食材にはすごく使いにくくなっています。逆に、秋口になるとおいしくなってくる。昔の定説や旬と、ちょっとずつ変わってきているな、と感じます。夏にハモを食べたいというのが、実際には秋口で、となると、その間を埋めていくというのが、お客さんをその気にさせるシチュエーションであり、プレゼンテーションでありますから。料理法を変えていかなければ、ずれが出てしまうなと、最近、感じます。
門上 食材カレンダーが確実に変わってきているということですね。
上野 日本でも関西中心の歳時記になっているのかなと感じます。北海道から九州まで同じ時期に同じものをほしがるのは、おかしいですよね。実際とは違う、体で感じるのとは、ずれが出てくると思います。
門上 器や食材のカレンダーなどと、いろんなテーマが出できました。京都の日本料理「和ごころ 泉」の泉昌樹さん、いかがですか。泉さんは、独立されてカウンターを設けず、座敷で勝負をされて、二つ星をとられました。
泉 参加させてもらい、錚々たる方がお話をしてくださって勉強になっています。皆さんがされていることは最先端でありながら、基礎を知っての最先端の料理だということを話されているので、今後もこういう場に参加させていただき、自分の料理を変えていけるようにしたいと思いました。
門上 未来へという提言もありましたが、川崎先生は未来ということについては?
川崎 未来は、必ず来るものだと思っていて、一時、モレキュラー(革新的な分子生物学的解析)が注目されたんですが、それが未来かというと、実は違ったんですね。それはなぜか、と思って。僕は大事なのは古典、クラシックで。クラシックは何かというと、その国でいろんな人が考えあわせて創り上げてきたもの、それが本質だと思うんです。日本料理は、型が決められていて自由がないと思うかもしれませんが、そうではない。それこそ自由で、決められていることは皆の結論というか、良かったということの結果だと思うのです。フランスとかスペインの人が、食べる大きさを考えても、多分、同じところに行き着くと思うんです。人間はそんなに変わらないですから。未来を考えるためには、クラシックを考える。クラシックとは何だったのかということをちゃんと考えていくことこそが、未来になっていくのではないか。古典とかクラシックを繙くのが大事なのかなと。若い人は基礎をきっちりやることが大事かなと思うんですけどね。
木下 例えば、70年代生まれの人は、それ以前の料理をご存じないわけですね。ロブションが日本に来たのは76年です。その前に、私どもの辻調理師専門学校にポール・ボキューズが来られたのが71年です。それで、日本のフランス料理界は、こんなソースがあるのかと、びっくりしたんですね。その頃の料理をご存じない年代の若い人たちが、古典を勉強したいということで、「知らなかった古典料理を教えてください」と来られます。しかし、「まず、本を読みなさい」といっても、本がない。
バルセロナ大学の図書館のwebサイトに、フランスのも含め古典料理の本を写真にして出てくるようになっているのがあります。全ページを見られて、何百冊というデータがあります。また、ガイアというのはフランスのwebサイトで、国立図書館のサイトも見られるようになっています。これには料理の写真はなく、テキストだけです。それがいいところで、写真がないものを見ると想像力が出てくる。想像して「こんなふうに作ってたのと違うかな?」と、新しい想像知識になる。温故知新ということで、古きをたずねると、必ず新しいものが見えてくる。僕が70年代を勉強するのと違って、全く知らない人が、知らない過去を勉強したら、そこから同じものは出てこないんですよね。経験が違うから。同じものが出てきようがない。同じルセットを作っても同じようにはならない。そういう面白さと斬新さが、これから出てくるのではないかなと思っています。
門上 フランス料理のwebサイトがあるということですが、日本料理にはありますか?
村田 全く、ないです。初めて本ができたのが、うちの先代とか瓢亭さんが、まだ25歳くらいの時に、日本料理の技術書『味への道』『会席への道』が出たんですけど、あれが最初なんです。あれ以外に技術書的なものは全くなくて、見て、覚えての世界だったから。あれで、当時若かった料理人は仕事をしたんですけど、弊害として日本中が京料理になってしもうた。それを是正するために地方の料理を見直そうということで、「瓢亭」の高橋義弘さんと一緒に日本国中を回りました。それで二代目は、先代が作ってきたプラスの部分とマイナスの部分を是正しようと、研鑽会で新しいテクニックをやっていますでしょ。それは今、調理科学として川崎先生とかと一緒にやっているわけですけど。世界の料理人と会話ができるというのは、基本的な知識があってこそです。
たとえば味の受容体の大きさでやっていければいいかなと思ったのは、一番無限にあるのはテクスチャー。もっちりしていて、おいしいとか、パリパリしていておいしいかとか。キューリは塩揉みするだけで、カロリーも全然ないですけど、食べながらお酒を飲んだりできますよね。テクスチャーがある。受容体が次に多いのは嗅覚ですね。388ありますから。それと脳の記憶がついていますから、388が重なると無限にある。次に舌の中の受容体でいうと苦味。他のものは受容体は1つですが、苦味だけは25ある。コーヒーの苦味とビールの苦味が違うことかがわかる。ヨーロッパの若いシェフ連中は、苦いと、カリカリしているのと、香りを組み合わせて、カロリーはないやろというものを、おいしく食べさせることを一生懸命やっています。チョコレートは苦くておいしい、苦味がなかったらホワイトチョコレートになるでしょう。そういうことに向けていってもいいのかな。和洋中を問わず、各シェフ連中は人間の味覚構造を知ることによって、おいしいものをつくる可能性が出てくるのです。
門上 また、次のテーマが出て来たようです。本日は、これで時間となりました。3人の料理人の方々には初めての経験で、おつかれさまでした。ありがとうございました。
関西食文化研究会は、いろんな形で、場所も大阪、京都、神戸で活動していますが、これからも続けていきます。また、麺などの分科会的なこともやりたいなと考えています。いろんな構想がありまして、いろんな形でアプローチを続けていきたいと思いますので、お知り合いの皆さんにお知らせいただいて、ぜひ会員の輪を広げてください。よろしくお願いします。




